日中囲碁交流に尽力した中国の高官「陳毅(ちんぎ)氏」
毅陳は四川省の出身。1916年、成都甲種工業学校に入学。1919年に勤労学生としてフランスに留学するも、1921年10月に中国人留学生による愛国運動に参加したことにより強制送還となる。
帰国後、毛沢東や周恩来らと共に中国の革命に参加。
1949年5月、上海市を解放した陳毅は、上海市人民政府を成立させ、市長に就任。1955年、中華人民共和国元帥に列せられる。
1958年2月11日、外交部長に就任。国務院総理(首相)である周恩来とともに外交政策を主管した。
1960年代に入ると、周恩来総理や劉少奇国家主席の諸国歴訪に随行、また陳毅自身を訪問団長とする外国訪問も増えていった。
日本との国交正常化にも取り組み、日本からの代表団とも数度にわたり面会している。
陳毅は中国政府高官の中の大の囲碁好きとして名が知られ、中国囲碁の復興、日中囲碁交流に数々の功績を残した。
1963年10月に日本の囲碁の代表団を中国に招待し、日本棋院からの名誉七段の証書と関西棋院からは七段[4]の証書を贈られている。
2012年6月、2世安井算哲(渋川春海)とともに日本棋院による囲碁殿堂入り(第9回表彰)に選考された。
上記の日本の囲碁の代表団を招聘した際、同行した日本記者団に対して「中国はどれほど貧しくとも核を作る」と発言し、内外を騒がせた過去もある。
陳毅はさすが麻婆豆腐など日本で絶大の人気を誇る四川料理の発祥の地・四川省の出身で、グルメとしても有名だった。
1971年に、北京の解放軍総病院(通称、301病院)で直腸がん治療の手術を受ける翌1972年1月6日に死去。その葬儀には毛沢東が突然出席することになって騒然となったことは今でもしばしば話題になる。
記事参考:百度、ウィキペディアより